「それじゃ社会に出たらやっていけないぞ」という大人について

ライフハック

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社会に出たらやっていけないぞの無責任性

「お前はこのままじゃ、社会に出たらやっていけないだろうな」。学生時代に言われたことがある向きは少なくないだろう。

 

このセリフを言われると怒りを感じると同時、うまく言い返せない苛立たしさを感じる。なぜだろうか。そしてその対処法(そうしたセリフを言われる個性豊かな方には必要ないかもしれないが)はどんなものがあるだろうか。

 

そもそもなぜ腹立たしさを感じるのか

それは卑怯だからだ。「社会に出たら――」ということは、未来の話である。未来のことは誰にも分からない。だから、論理的に反論しようにも未来のことは分からないため、反論のしようがない。たとえ「俺は将来のために○○をしている。だから、社会に出ても問題はない」と反論したところで、「いや、今のお前を見ているとそんな風には思えない。今のままじゃ絶対に――」と、そもそも未来の話をしているのだから、どうとでも言えてしまう。

 

つまり、裏を返せば未来の話を「お前はやっていけない」などと断定すること自体がおかしな話なのだ。分からないことを断定し、想定しうる可能性を考慮できない大人。そう思うとメンタルの持ちようがあるのではないだろうか。

社会を見たことがある人はいるのか

立ち返って「社会で」という部分に着目する。「社会はそんなに甘くないよ」、「社会人として」と耳にする。その社会とは何か。

 

私は、中学校、高校、大学と進学し就職活動を経て、いよいよ社会に出るものだと思っていた。が、就職しいわゆる一端の社会人になったが、反面、社会に出たという感覚はなかった。その後、何年も会社で働いたが、「いや~俺、社会にいるな~」なんて実感はついぞ得られなかった。

 

社会とは何か。その本体を実感として捉えている人はいるのだろうか。

 

学業を終えれば新しいコミュニティである会社に入る。もちろん、その中で社内の繋がりやクライアントと接することもあるが、それは人と人との現実的な繋がりでしかない。クライアントのAさん、上司のBさん、経理部のCさん。これが社会か。学生時代に「お前は社会ではやっていけないよ」、「社会人として」などと散々脅されてきた社会なのか。これが口酸っぱく言われてきた厳しい世界なのか。

 

社会はとどのつまり、幻想に過ぎないのではないか。社会という言葉を持ち出されると漠然としていて、何か厳しいイメージがあるため議論が上滑りする。が、実体は、人の集まりだ。

 

学業を終えて、新たに社会という漠然としたものに飛び込むのではない。そんなものは存在しない。ただ大学に所属しているか、会社に所属しているか。それだけの話しだ。社会という空恐ろしい言葉を使って相手を、自分さえも分からないところに議論を持っていく、「社会に出たら」という常套句はそんな手段に思える。

社会という漠然性とやっていけないという不確定性

若い頃に想像した大人は、何か青年から大人への儀礼を通ったかのような存在だった。一言で言えば、きちんとした存在だった。が、結果、いわゆる社会にはそうした大人然とした大人はいなかった。父親や母親、先生などはバイアスがかかって何か違う存在のもののように思えてしまう。しかし、自分が親や教師の年になると分かる。自分と同じだったということが。青年と大人の境界線などなかったことが。

 

社会とは常套句に過ぎないのではないだろうか。「社会人になったら」、「社会人として」などと自分でも実体を捉えられないまま、社会という言葉を使えば何となしに言いくるめられる。だとしたら、厚顔無恥以外の何者でもない。もっと言えば、自分の範囲でしか(大学を卒業し教員免許を取得しそのまま学校に就職する)、物事を判断できず、それをあたかも正しいかのように断言してしまう悪ではないだろうか。

 

その注意を優しさという人もいるだろう。確かに将来のことを心配してのことかもしれない。が、その青年の幸せとは何か。自分が生きてきた価値観に当てはめて矯正することが幸せか。危惧した通り、先生方が描くような幸せ、つまり就職をして結婚をして子宝に恵まれて、という人生を送れなかったとしよう。もっといえば、ろくに就職もせず彼氏彼女もできず、天涯孤独に生きたとしよう。だから何か。それが不幸せか。

 

日々、笑顔で生きることだけが幸せなのだろうか。極端にいえば、自ら不幸に突っ込んでいって何かを掴もうとする人間だっている。ランボーは「不幸こそはぼくの神だった。ぼくは泥濘のなかに身を横たえた 」という。坂口安吾は「君、不幸にならなければいけないぜ」という。古代ギリシアの哲学者ジオゲネスは、自由人を標榜し樽の中に住んだ。これは極端な例だ。しかし、数式の定理は極値を当てはめて成立なければ嘘という。

 

生き方にはそれぞれの歩み方がある。それを「そのままじゃやっていけない」などと、幸せの前提も何もかも置き去りにして、断定するのは、やはり間違っている。

 

「社会に出たらやっていけないぞ」は、何もかもをすっ飛ばした厚顔無恥な言葉ではないだろうか。

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