個性とは何か?現代にも通ずる小林秀雄の「個性論」

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個性とは何なのか?

「君は個性的だね」、「個性を大事にしなければならない」、「会社が生き残るには、その会社の個性を出さなくてはいけない」。

 

個性という言葉はよく使われている。辞書をひくと「他人とは異なった、その人の性格や性質」とある。例えば、人と違う性格であれば個性的な性格、人よりも大きく目立つ鼻を持っていたら個性的な鼻というわけである。

 

しかし、人とは違うというのはどういうことだろうか? 事細かく言えば、まったく同じ性格やまったく同じ鼻などありはしないのだから、取りようによっては、どんな性格、どんな鼻でも、他人とは異なった性質、つまり個性的であるといえなくもない。

 

では、現代において、個性とはどんな意味で使われているのだろうか?

 

例えば、TVのリポーターがあまり美味しくない食べ物を食べたときに使う「個性的な味ですね」。例えば、綺麗ではない人の容姿を形容するときの「個性的な顔立ちですね」。さらには、かけっこが遅い、計算が苦手、人付き合いが苦手、そうしたことにも「この人の個性ですから……」といった言葉も使われる。

 

つまりは、話し手がネガティブだと思っていることを無理にポジティブに捉えようとして使っていることがままあるというわけだ。かけっこが遅い、計算が苦手ということが本当にネガティブなことであるかは別だ。話し手が、「これは良くないことだけど……」と思っていることについて、無理に肯定的に捉えようとする傾向があるということだ。

 

就職活動では「個性を大事に」と言われるし、社会では「一人ひとりの個性を尊重すべき」とも言われる。では個性とは何なのか。個性という言葉を使えばなぜだかよく分からないけれど、何だか前向きな感じがする。そうした漠然とした表面的な理由で個性という言葉は多用されているようにも思う。

 

個性とは何か? この問いに小林秀雄は画家のゴッホを論じるときに一つの答えを出している。小林秀雄とは昭和期に活躍した著名な文芸評論家だ。現代にも通じる話だと思うので紹介したい。

ゴッホが自身の個性をどう考えていたか

以下、小林秀雄が講演で話した言葉。

 

「自分を知るというのはゴッホのような場合は極端な場合ですけど、大変難しいことだ。クラウスというオランダのある医者がゴッホについて話している。ゴッホという人は非常に個性的な人だったけれども、あの人の病気はあらゆる文献を調べて研究した結果、あの人の病気も非常に個性的だった。なんとも名付けられないものだった。今日の病理学で型にはめることのできないほど、あの人の病気も個性的だった」

 

「もしも、あの人の病気をゴッホ自身が読んだら、どう言いましょうか。なるほど、ありがたいことであると。私のことを色々と研究してくださって、個性的な人間であると。あなたの病気まで個性的であると、言ってくださるのは甚だありがたいけれども、実は自分の個性にこれほど悩まされた人間はいないんだと。自分は正気のときだってとても風変わりの人間だったんだと。個性の強い、自我の強い、妥協というものを知らない人間だったんだと。だから始め牧師になろうとしたときも、すぐに牧師と喧嘩したと。家庭教師もダメだった。恋愛もダメだった。弟というものを非常に愛していたし、弟も自分のことを非常に尊敬してくれていたが、弟とも会うとうまくいかなかった。ゴーギャンという絵描きはお互いに尊敬していたんだけれども、ゴーギャンと一緒に仕事をしようとしてもやっぱしうまくいかなかったんだ」

 

「みんな俺の個性のためだと。なんと俺は、この個性というものは捨ててしまいたかっただろうと。最後において、おれの一番個性的なものは何かと。俺の病気だと。俺の☓☓☓☓(伏せ字)だと。あれほど、俺にとって個性的なものはないでしょう。だけど、俺はあれと戦ったんだ。どうかして、あれと戦って正気になろうとしたけれども、ついにダメで、自ら命を絶ってしまったんだと」

強制された特徴を突破する

「以上のようにもしも、ゴッホが答えたならば、誰も反対することはできますまい。そこで個性というものが分かるんです。普通に我々が個性だと言っているものは個性なんかじゃないんです。あんなものは、ただ人と変わっているということなんです。だから、芸術家の個性というものは我々が考えているような、個性ではない、そういう意味ではないんです。少なくともゴッホにとってはそうではなかった。偉い芸術家にとってはみんなそうではないかと思います。私の鼻がとんがっているなんてのは、何ですか。私の個性ですか。しょうがないじゃないですか、こんなもん。だから、人間というものはそういう風な意味での、個性というのは、その人のオリジナリティってもんじゃないんです。それはむしろ、スペシャリティです。特殊性です。こんなものは誰にだってあるんだ。誰にだって個性のないやつはないでしょう。どんな人にだって個性ぐらいはあるんです。みんな人の顔に個性的なものがあるように。それは強制されたものです。だけど、だからこそ、そんなものは突破しなくてはならんのです。そんなものは克服しなきゃいかんのです。だから芸術家の個性というものは必ず、努力の結果、そういう強制された個性というものを克服したものです。そんなふうなものを乗り越える精神が、これが本当の個性なんです」

 

「こういう風なものはゴッホに限らない。ただ、ゴッホは、ゴッホの場合はあの人には☓☓☓☓というものがありましたから、だからそれが非常に強烈にあの人に現れているんだけども、だけど優れた芸術家というものは、自分の尖った鼻を自慢しているやつなんてのは一人もいないんです。こんなものは与えられたものなんです。私はこんな尖った鼻を持って生まれたのにも関わらず、こんな普遍的なことが言えるというのが芸術家でしょう」

 

「だけど、それはみんな間違えることなんです。ことに、そのローマ派芸術というものが始まって以来、誰でも個性を表したいという欲求が強い。だからみんな個性を表すんで、これは鼻が高いよと言う。俺はこんなどんぐり眼をしているんだよとか、俺は背が高いんだとかってことを自慢するのが個性だと思っている。また、そんな風な文学がたくさんあるんです。しかし、それはただ、変わったって言っているんです。変わったってことは、癖があるように自慢には決してならない。変わったものはみんな征服しなければならないものばっかりなんです。そういう風なものが個性だと。だから、ゴッホの手紙というものを読んでいて一番感心するのは、あの人の公正無私です。「私」のないところです。一番呵責なく批判しているのが、自分なんです。自分の癖だとか自分の考え方だとか、自分の感情だとか。そういう風なものはみんないわゆる個性的なもの。個性的なものはみんな偶然的なものです。彼の精神から見ればね。そういう風なものをみんな乗り越えて克服しなければ芸術家とはいえないでしょう。乗り越えていく精神を掴まなければならない。そういう風なものが本当の個性であったということが、あの人の実によく出来た告白文学を読むと実によく分かるんです。そういうところに、個性というもののいちばん大事なものがあるんじゃないかと思う」

 

以上が、小林秀雄が話した個性についてだ。

特徴と個性

背が高い、背が低い、話すのが上手、うまく喋れない、目がよく見える、目が見えない。それは個性というよりは特徴という言葉の方がしっくりくる。個性と安易に言い換えてしまうと何かを隠しているような意図さえ感じてしまう。

 

小林秀雄によれば、そうした元来持って生まれた特徴を克服する精神にこそ個性が宿るという。

 

自分に与えられた特徴は、それこそ人それぞれだ。それによって得することもあれば、生きづらくなることもある。損をする特徴と戦う場合、その特徴によっては、筆舌に尽くしがたい努力をしなければならないときがある。持って生まれた理不尽と戦う、その気持は想像もつかない。が、そうして自分の特徴と戦って乗り越えた人には、他人とは違う輝かしい個性が宿っているのではないかと思う。

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